きびの歴史ノート

日本人は無宗教だと言われています。が、多くの人が生後すぐに近所の神社にお宮参りして、その後は七五三やら初詣やら、神社と関わって暮らしています。 そこまで浸透している神社の「かみ」とは、何者? 自分の氏神や近所の神社の神を調べてみたのが始まりです。

1町=10反=3000坪=9900㎡   1俵=4~6斗 4斗俵=米60㎏
1石=10斗=1000合=米150㎏  <知行>1石=金1両=米5俵=1人扶持

歴史

<六甲山とムカツヒメ(5)>

むか(六甲、向)地域とは

ムカツヒメの名前は地名由来だと考えられる。
では、「むか」とはどういう意味なのだろう。

六甲山を「むかつ峰」と古くは呼んでいた。
その理由として伝えられているのは、
「難波の宮から見て、向こうだから」というもの。
難波の宮は前期と後期があり、
また仁徳天皇の難波高津宮もある。
仁徳天皇は実在性が疑われていて高津宮も同じ、
ここだという遺跡はないようだ。

それらの、どれだろう。
どの時代なのか、明確ではない。
そんなあやふやな地名由来こそ疑わしい。
きっと別の由来があると思う。

たとえば地形由来。
「むさ、むた」と同じく「湿地・泥地」を指すというような。

難波の宮ができる以前の歴史を見れば、どうだろう。
古墳時代の前も「むか」だったのだろうか。


古墳時代以前の「むか」と武庫川

「むか」地域が、六甲山系の南一帯を指すとすると、
東から順に尼崎市、西宮市、神戸市になる。
その中でも尼崎市と西宮市の境にある「武庫川」が気になる。
「むこ」とは「向こう」の意味ならば、「むか」と同じだ。
もしかして、武庫川から西が「むか」なのだろうか。

西宮市には旧石器時代・縄文時代の遺跡は未発見だが、
甲山山頂・岡田山・上ヶ原新田墓地遺跡に痕跡がある。
縄文時代の石器が出土していて、
古くから近辺に住人がいたことは確かなようだ。

弥生時代後期の集落遺跡として仁川五箇山遺跡。
甲山山頂では銅戈、海岸部平地の津門大塚町では銅鐸が出土。
大塚町の北の高松町遺跡には水田跡がある。

「むか」に弥生時代の水田遺跡

集落遺跡がある西宮市津門大箇町では、
弥生時代から奈良時代までの出土品があった。
武庫川の西岸、現海岸線から2kmの低地、
明治までは一面畑地または水田だったという。
武庫川と夙川が運ぶ土砂が積もってできた扇状地で、
時代とともに海岸線は南下してきた。
古代では海岸沿いの村だったようだ。
「津門」という地名のように、武庫川と海とをつなぐ港。

津門には古墳時代(中期)の前方後円墳が二基あったらしい。
5世紀の埴輪が出土。
現在は古墳地上部は消失。
高松町遺跡(水田跡)はそれらの北部に位置する。
その水田と集落(大箇町遺跡)とこれらの古墳はセットで、
稲作農民のムラと、その支配者(ムラの首長)の古墳らしい。

まとめとして、「むか」も湿地?

この地域(津門)が「むか」だとすると、「むか=むた」だ。
歴史的にも地形的にも言える。
武庫川の扇状地で、縄文時代は海だった。

「むた」地名の多い地域は大牟田市だが、
有明海沿岸の湿地で、多くの弥生遺跡がある。

また関連して「むさ」では、岡山と奈良に例がある。
岡山の牟佐は古くは旭川の河口、縄文時代は海。
奈良の牟佐は縄文時代は奈良湖の沿岸。
どちらも湿地で、早くから水田になった場所だろう。

むか=むた=むさ、そう考えることもできる。
ただし、これといった根拠はない。



19-4  ムサは北九州(豊後、大分県)発だろうか?

各地の「むさ」を見てきたが、「むさし」は豊後の地名として一部現存する。
大分県の国東半島を流れる武蔵川や武蔵町だ。

「むさし」が「むさ」から派生した類語ならば、ここにも「むさ」はあった?

武蔵地名、古代では

北九州の豊後・国埼郡「武蔵郷」と、豊後・大分郡「武蔵郷」、そして関東の武蔵国、これら合計三ヵ所に「武蔵」地名がある。

近畿地方の多くの地名が九州にもあることから、九州から移住した人々によって故郷と同じ地名がつけられたと考えられている。

それと同じように九州から関東へ移住した豊後の人々によって武蔵地名がつけられたのだろうか。

武蔵国の豊島郡は和名抄にもある古い地名だが、この「豊」は豊前・豊後の「豊」だとすれば、その考えも成立すると思う。

ムサシ地名は国前国造「むさじ」に由来?

<先代旧事紀、国造本紀>には「国前ノ国造は牟佐自ノ命をもって始めとする」と書かれているらしい。

牟佐自とはどういう意味だろうか。
牟佐は地名で、「じ」は首長だとすると「牟佐の首長・領主」となる。

古代人の名の多くは地名由来で、「~じ」という形式の名も多い。
たとえば物部氏の祖「うましまじ」だ。「うましま」の首長だろう。

同じ国前国造に「午佐自」がいる。「うさじ」とは宇佐の首長だと思う。

宇佐市は国東半島の付け根に位置する。
豊前国宇佐郡、古くからある郡名で豊後国との境界となっている。

「志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に吉備臣同祖の吉備都命六世孫の午佐自命を国造に定める」と、<先代旧事本紀 国造本紀>にあるらしい。

国東半島に「むさ」地名があったなら

以上のことから、クニサキ(国東・国前)半島に「牟佐=むさ」という地名の場所があったと言うことができるだろう。

だが、のちに残ったのは武蔵郷で、「むさ」ではなく「むさし」だ。
なぜ「むさ」が消えて「むさし」となったのだろうか。

大牟田の「むた」は、地形由来

「むさ」と似た地名として「牟田」がある。大牟田(福岡県大牟田市)だ。
その地名由来では「むた」は「じめじめした湿地、泥地」だそうだ。
「ぬた」や「にた」と同じらしい。
むた=ぬた=にた

大牟田には牟田・上牟田・下牟田など「牟田」地名が数多くあり、
「昔は海だった。入り江がせまっていた」場所。
有明海沿岸には「牟田」地名が多く残っている。
八女郡星野村の大牟田、小郡の牟田など。
「むた」は地形由来とするのが妥当だろう。

むた=むさ?

さて、これと「むさ」は関連するのだろうか。
「むさ」も地形由来だろうか。
奈良の「むさ」はどうだろう。
縄文時代は奈良盆地は湖だったというから、湿地。
岡山の「むさ」はというと、同じく、
縄文時代には岡山平野は「吉備の穴海」だったから、湿地。

弥生時代に稲作が盛んになり湿地が水田となり、そこに村ができた。
むさ=むた=むら、そういうことだろうか?

ムサとは

「むさ」地名の由来がわからない。
各地の「むさ」に何か共通点があるのだろうか。


身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)、5C前半

越智桝山古墳という。
つきさか(築坂)とは奈良県橿原市北越智町・鳥屋町あたり

「むさ」は奈良県橿原市の畝傍(うねび)山の南および南東一帯をさす古代地名で、雄略天皇家臣の「むさのすぐりあお」など人名にも使われている、

三輪君身狭(大神身狭、みわのきみむさ)は安康天皇・雄略天皇の頃の人。

当地は神武東征時に道臣が所領としてもらった所(つきさか及び、くめ)だとされている。

「くめ=久米」は久留米と同様に北九州系海人族に由来する地名だろう。

新沢千塚古墳群の東側、県立橿原高校の南東隣
一辺約90m、高さ約15mの規模を測る三段築成の方墳
方墳としては日本最大の規模。
表面で採取される埴輪から、5世紀前半に築かれたと考えられている。
前方後円墳に見えるが、幕末に行われた修陵による改変。


被葬者は第10代崇神天皇の皇子、倭彦(母は御間城媛)
同母兄は垂仁天皇


牟佐坐神社

奈良県橿原市見瀬町718(大和国高市郡)
近鉄吉野線岡寺駅の近くに鎮座。
 
地名の見瀬は牟佐(身狭)の転訛。 400m北東に見瀬丸山古墳がある。
祭神: 高皇産霊命、孝元天皇
 
見瀬丸山古墳、6C後半

奈良県最大の前方後円墳で、6世紀後半に築かれたと考えられている。
あまりにも大きいため全体像が分からず、円墳と考えられていた時代もあり、丸山古墳と呼ばれている。
見瀬町は周濠(しゅうごう)の一部にかかるにすぎず、見瀬丸山古墳という呼称より五条野丸山古墳、あるいは大軽丸山古墳と呼ぶのが適切。
全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると全長約420mにもなる超大型の前方後円墳
日本最大の横穴式石室として知られている。現状でおおよそ全長28.4m、玄室長8.3m、羨道長2玄室には2基の家形石棺が安置。

古墳の築造時期や石棺の様子などから、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙げられている。 

牟佐(身狭)村主青、5C後半の外交官

書紀によると雄略8(464)年,12年に檜隈民使博徳と呉に使者として渡る。帰国に際し,呉の漢織,呉織,衣縫などの技術者を招来する。

村主は渡来氏族の姓、氏の身狭氏は倭漢(=東漢)氏の一族で配下。
身狭青の職掌は史部(朝廷の書記官)

東漢氏の祖先は書紀によると応神天皇20年に渡来した阿智使主。
息子・都加使主および党類十七県を率いて渡来してきたと記す。

与えられた姓は「漢値、あやのあたい」で、のちに河内の西漢氏、大和の東漢氏に分かれる。応神の頃も織物技術者を招来し、新技術導入に貢献した。



渡来した阿智使主一族が高市郡一帯に住んでいたが、身狭村主青(むさのすぐり あお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)は後裔。

身狭村主青は檜隈の少し北側の牟佐座神社の周辺に居住した集団の長で、檜隈民使博徳は檜隈を中心に居住した集団の長。

東漢(やまとのあや)氏は朝鮮半島南部の「安羅=安耶、あら・あや」から渡来し、氏寺は檜隈寺(7C建のち廃寺、奈良県高市郡明日香村檜前字ヒガキ)

書紀の記述では「あや氏」による織物技術の導入は応神の頃のも雄略の頃のも「ほぼ同じで」どちらも事実なのか、どちらかが虚構なのか不明。

記述によれば織物技術導入には宗像氏と三輪氏とが関係しているが、当地(むさ地方)の権力者はのちに物部氏や蘇我氏になるのでどうなのだろうか。


牟佐大塚古墳、6C末

岡山市北区牟佐
旭川沿いで古代山陽道「むさの渡し」があった所。
西に旭川、旭川対岸に宗谷山、北には高倉山、南に竜の口山

直径40m、高さ10mを上回る大型の円墳で、墳丘の中心部分に全長18m、最大幅2.8m、最大高3.2mを計る横穴式石室が南向きに設けられている。

石室の規模の巨大さから巨石墳と呼ばれ、出土物が不明だが六世紀末の築造と推定される。巨石は花崗岩。

石室の奥には家形石棺が安置してあり、石材は備中南西部(井原市)産出の貝殻凝灰岩「浪形石」。

被葬者は不明。交通の要衝だから吉備国造ランクの人、吉備上道氏など。

地名の「牟佐」は大和高市郡牟佐坐神社から来た身狭村主に由来するという説があるが、その根拠は不明。

牟佐村主相模瓜 8C初

続日本紀に記載。元明天皇の頃(710年)
「左大臣舎人」で、正八位下
この時の左大臣は物部氏の石上麻呂

むさ郡(武射郡)

上総国武射郡、下総との境界
武社国造(わに氏の祖:彦意祁都の孫の彦忍人に始まる)の領地
現在は千葉県山武市、東金市、山武郡のあたり(外房)

6C後半から大規模古墳の造成が始まり、大型前方後円墳や巨大な方墳・円墳が数多く残る。

むさ国造(武社国造)

13代成務天皇(わかたらしひこ、景行天皇の子)の頃に「わに氏の祖:彦意祁都の孫の彦忍人」が国造に任ぜられたとされる。by<先代旧事本紀>

国造家は牟邪臣とされ、5代孝昭天皇(みまつひこかえしね)の第1皇子「天足彦国押人」の子孫だと古事記に記されている。


むさし国

无邪志国、武蔵国、無邪志国、牟邪志国、无謝志国ともいう。
身狭国を分割して武蔵国と相模国になったとされる。

書紀では安閑天皇元年(534)に武蔵国造の乱があったと記す。
国造家の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と弟の内乱。

大宝三年(703)引田朝臣祖父が武蔵国守に任命される。
祖父は「おほぢ・おほをぢ」と読むらしい。祖母は「おほおや」で美称。

引田(疋田)氏は物部一族で、その祖先を祭る曳田神社は大和三輪山の奥、
その元宮は三輪引田難波麻呂の屋敷跡にあったという。

阿倍比羅夫の子の引田朝臣宿奈麻呂も持統・文武天皇時代の人。
阿倍氏だが居住地の引田を氏として名乗ったという。

書記には武蔵国造は出雲臣や土師連と同じくアメノホヒの子孫だと記されているので、壱岐から北九州一帯の渡来人系海人族だと考えられる。

また、无邪志国造は出雲臣の祖の兄多毛比(えたもい)に始まると伝えられている。by<先代旧事本紀>

また、胸刺国造はエタモイの子の伊狭知(イサチ)の直に始まるという。


近江の武佐、武佐臣、旧中山道「武佐宿」

近江八幡市武佐町(近江国蒲生郡武佐)
琵琶湖東岸、安土山の南

安土山は安曇川と同じく安曇氏(北九州系海人族)由来の地名で、元は「あど」だったと推定することもできる。

ただし、安土城を築く前は「目加田山」で、六角氏(佐々木源氏)の家臣の目加田氏の居城があったそうだ。

目加田氏は藤原氏一族で一条天皇の頃(10世紀)に京から近江に移住し、目加田山に居住したという。

また、13世紀に目加田庄に移住したともいうので、遅くとも鎌倉時代から目加田という地名だったのだろう。

これから「安土」は信長の命名だという説があるが、そうでもなさそうだ。

山麓の石部神社(近江八幡市安土町下豊浦6222、祭神:磯部大明神のち天照大神)の13世紀の記録に吾地我峯(あっちがたけ)とあり、
同じ時代の正和二年の古文書に「安土寺」の記載があるらしい。

安土寺は現存せず、安土山には信長の建てた総見寺(近江八幡市安土町下豊浦6367)がある。

<奥石(おいそ)神社の伝承>
近くの奥石神社(近江国蒲生郡佐々木庄、式内社)には上総の海で自殺したオトタチバナヒメの伝承が残っている。

上総の「むさ」と近江の「むさ」との共通点はオトタチバナヒメということだ。
伝承詳細は以下、
景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は上總の海にて海神の荒振るを鎮めんとして、「我胎内に子存すも尊に代わりてその難を救い奉らん霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓い給ひてその侭身を海中に投じ給ふ云々とあり、爾来安産の宮として祈願する諸人多し。

<牟佐神社 >
近江八幡市武佐町
祭神.: 都美波八重事代主 〔配祀神〕伊邪那岐 産土神 素盞鳴

まとめとして、各地の「むさ」の共通点は

1)北九州系などの海人族
2)渡来人
3)交通要衝地
  河川・湖・海などの港、または主要道路沿いの地

19-2  須佐と須賀(須我)

スサノオ(須佐之男)は須我神社や須賀神社に祭られている。スサノオの須佐は地名だとされているが、それなら須佐神社になるはずだ。

では「さ」と「が」の違いがあっても、「須佐=須我・須賀」ということだろうか。

須我神社の住所は島根県雲南市大東町須賀で、スサノオがクシイナダヒメと共に暮らした須賀ノ宮の跡地だと言われている。

その名のとおりの須佐神社(島根県出雲市佐田須佐)にもスサノオは祭られている。須佐川のほとりで、これこそが本家本元のようだ。

スサノオを祭る神社は全国的に多いが、神社名は統一されてはいない。

他には八坂神社、祇園神社、八雲神社、八重垣神社、氷川神社 津島神社
素盞嗚神社などでスサノオは祭られている。

八坂は八坂郷という地名から、津島も同じく地名由来で、祇園は仏教由来、八雲と八重垣はスサノオが詠んだとされる和歌に由来する。

氷川はヤマタノオロチを退治した川と同音(ひかわ)なので、この伝説に由来。

また仏教全盛の神仏融合の時代には、スサノオを仏教の神(インド古来の神)の牛頭天王と同一視して牛頭天王社で祭るようにもなった。

さて、須佐と須賀の二つを比べると「スサノオは須佐で生誕」という伝承からみて須佐が先でその後に須賀がきているようだ。

「さ=か・が」だとして、「さ」のほうが時代的には早いのだろうか。
他の例でも検討する必要があるだろう。

須佐神社の所在地「佐田須佐」だが、ここは「スサノオ終焉の地」という伝承もあり、それからすると「さ」のほうが時間的に早いとは言えない。

他の例を見てから、それからだ。

19.宇佐と宇賀、須佐と須賀、牟佐と六甲(むか)

宇佐は地名だが、これによく似た宇賀は「うかのみたま」の「うか」で、神の名の一部となっている。
稲荷神と同じく食物や穀物の神だ。

須佐は地名で、スサノオ(須佐之男・素盞嗚)はその地方の神だとされる。
だが、須佐神社だけでなく須賀神社でもスサノオを祭っている。

牟佐は各地にある地名だが、この地名を持つ神はみあたらない。
六甲山の女神「むかつひめ」の「むか」が最も近いように思う。

これらの例からして、「さ=か・が」という等式が成立するのでは?
一つ一つ考えてみたい。

<補足>
向津具(むかつく)半島、「向津」

山口県長門市の日本海に突き出た半島 標高347m
地名由来は以下。
和名抄の
郷名として向国(むかつくに)とある。
中世になると向津荘・向津奥荘・向徳などの地名も。
向津(むこうつ)の由来は、油谷湾南岸の粟野・伊上より見ると向こうだから。
半島の津(港)は本土側からすると、向こうの津。

神戸の六甲山の地名由来も一説には「向こう」で、これと同じだ。
川は「むこ川」だが、山は「むこ山」だけでなく「むかつ峰」とも言われた。
「むか=むこ」ということだろう。
元は「むか」で後世に「むこ」になったものと、変わらないものと。
二種類が混在して、由来を複雑にしていると思う。

18-5 「~さ+~」という複合型

「~さ」地名をもとにして、「~さ+~」という複合型の地名ができたと考えることもできる。

浅岡・浅野・朝原・浅田・浅井などは「あさ」、与謝野は「よさ」、笠岡・笠原・笠山・笠井は「かさ」、諫早は「いさ」が元になったと思う。

さて、それなら「~さ+か」も同様だと考えていいのだろうか。
あさか・いさか・えさか・おさか・こさか・くさか・たさか・つさか・やさか等だ。

だが、これらの「さか」は境界を指す「境」や「坂」の意味だとされている。
神との境(=神域)から転じて神社関連の地名とも言われている。

一部はそうとして、全部が全部「境界・坂・神域」だとはいえないだろう。
「~さか」の一部はこちら(複合型)に由来すると思うのだが


18-4 「~佐」地名の仲間、牟佐

牟佐
岡山市北区 牟佐、旭川の東岸一帯の低地(川の氾濫域)、
吉備高原(丘陵)の南端、古代山陽道の旭川「牟佐の渡し」があった交通要衝地

中世山陽道はもっと南の御野郷、現在の三野公園(妙見山)のあたりで「鑵子(かんす)の釣(つる)の渡し」と呼ばれていた。

北に龍王山、南には竜ノ口山、西の旭川の対岸の北西には辻の山と金山

律令制時代では備前国御野郡牧石郷だろうか。
ただ、旭川の東岸は基本的に上道郡(旭川が郡の境界)

和名抄備前国六郷:牧石郷、広西郷、出石郷、御野郷、伊福郷、津島郷

<牟佐大塚古墳>
直径40m、高さ10mを上回る大型の円墳で、墳丘の中心に全長18m、最大幅2.8m、最大高3.2mを計る横穴式石室が南向きに設けられている。

巨石墳と呼ばれ、出土物が不明(盗掘痕跡)だが六世紀末の築造と推定され、家形石棺が残る。備中南西部(井原市)産出の石材(浪形石)製

浪形石はおよそ1500万年から2000万年前(新生代第3紀)、中国地方が浅い海であった頃に貝殻や砂が堆積して出来た砂岩で、別名浪形石灰岩

背後の高倉山は、国見岳(国中の米作りの見極めを行う祭政の地)で、この山を祭る高蔵神社の鳥居の石製扁額には、正慶元(1332)年の製作年と、「大願主神主上道定成」の銘文がある。

後の時代まで上道氏がこの山の祭事に深くかかわり合っていた証拠。
このことより古墳の被葬者は上道氏だと考えられている。

だが、牟佐の渡という要衝の地にあるとはいえ、上道氏の本拠地からは隔たった地に築かれているのは特異で、何か理由がありそうだ。

<高蔵神社>
祭神は天香具山(あめのかぐやま)と天火明(あめのほあかり)



関連地名
<大和高市郡、牟佐神社> 奈良県橿原市見瀬町  高取川の西側
                   式内社 大和国高市郡 牟佐坐神社

日本書紀天武天皇紀によると、安康天皇の御世、牟佐村の村主青が創建し、祭神は生雷神で、江戸初期まで榊原天神と称されていた。
 
享保の頃(1716--36)には菅原道真を祭神としたが、明治に至り、天津神である高皇産霊神を奉祀して現在に至る。
境内は孝元天皇の即位された宮地(軽境原宮)と伝えられている。

牟佐村主青の子孫が神主家となったことから、祭神(生雷神または生霊神)は牟佐村主青一族の氏神だと考えられる。

近くに見瀬丸山古墳(五條野・大軽丸山古墳)がある。
ただし周濠部分しか見瀬町には含まれない。
古代の下つ道(藤原京と平城京をつなぐ道)はこの古墳の前が起点。

<見瀬丸山古墳>
全長約310m、周濠を含めると全長約420mの超大型の前方後円墳。
日本最大の横穴式石室。家型石棺二基。
6c後半の築造、被葬者不明(宣化天皇、欽明天皇、蘇我稲目など?)

<牟佐村主青>
身狭村主青ともいい、記録では渡来人の呉使主青(くれのおみあお)が安康天皇の時代に牟佐村主という姓を賜ったらしい。東漢(やまとあや)氏の一族。

奈良の「むさ」と岡山の「むさ」の共通点は

1.山や丘陵に囲まれ、中心に川が流れている。
2.渡来人系の神を祭る神社が残り、古代は渡来人豪族支配の地だった。
3.古代の幹線道路が通る交通の要衝

18-3 「~佐」地名の仲間、宇佐

宇佐
大分県宇佐市、県北部で国東半島の付け根、周防灘に面する。
律令制では豊前国宇佐郡、豊後国との県境に位置する。

記紀の神武東征ではウサツヒコ(菟沙津彦)・ウサツヒメ(菟沙津媛)が登場する。宇佐地方の領主(王族)だろう。

「記」では、「豊の国の宇沙」に神武天皇が訪れた時にウサツヒコらが足一騰(あしひとつあがり)宮を建てて歓待したと書かれている。

「紀」では「筑紫の国の菟狭」に神武天皇が訪れ、宇佐国造の祖のウサツヒコらに、菟狭川上の一柱騰宮(あしひとつあがりみや)で歓待され、
家臣の天種子が勅命でウサツヒメの婿になったと記す。

天種子(アメノタネコ)は天児屋根(アメノコヤネ)の孫、中臣氏の祖先神。

記紀創立当時の人から見ても「宇佐=大昔からある地名」だったようだ。

和名抄では宇佐郡は十郷(辛島郷、向野郷、)に分かれ、宇佐郡には律令制の駅(宇佐駅・安覆駅)もあった。

宇佐市には駅館という地名が残り、市内を流れる川の名は駅館川。

18-2 「~佐」地名の仲間、伊佐

伊佐 
鹿児島県伊佐市(県北、熊本県・宮崎県との県境) 
    大口市と菱刈町が合併して発足
    もとは薩摩国伊佐郡(伊佐市の大部分)と菱刈郡

関連地名
<伊佐爾波神社> 愛媛県松山市桜谷町
    元は湯月城の丘(伊佐爾波の岡)にあり別名湯月八幡、式内社
    神功皇后の行宮跡だと伝えられる
    神功皇后の神事のための「さには」だった場所だろうか?
       
関連地名
<伊方>          
  国生み神話で「伊予の二名島」というように、伊予地方は西の「伊」地域と東の「予」地域の二つに分かれている。

伊方原発の「伊方」は「伊佐の潟」と解釈することもできるだろう。

鹿児島や愛媛に「伊佐」があるのは、もしかすると北九州(筑紫)の糸島半島の「いと」つまり古代「伊都国」の人々が移住したからかもしれない。

18-1 「~佐」の仲間、安佐

「~さ」という地名は西日本にはよく見られる。
土佐の「とさ」や宇佐神宮の「うさ」などからして、かなり古い地名だろう。

時代や地理的また民族的に共通点はあるのだろうか。

安佐
広島市安佐北区、安佐南区、明治時代に高宮郡(旧称;安北郡)と沼田郡(旧称;佐東郡)が統合して安佐郡が発足

安佐という地名は明治期に作られたようで、安佐村はなく佐東郡安村があっただけのようだ。

安北郡とは安芸郡の北部が分かれてでき、佐東郡とは佐伯郡の東側が分かれて付いた名称だという。

安芸郡は律令制時代では広範囲で、和名抄にある安芸郡安満郷(あま郷、名前からして海部)などは島々を含んでいたらしい。

(安藝の国は元は、沼田、加茂、安藝、佐伯、山縣、高宮、高田、沙田(ますだ)の八郡)

関連地名
<あづさ=梓>
松本市の梓川(信濃川上流)は、梓弓の産地で有名。原料の梓(カバノキ科落葉樹)がこの地域に自生することで梓川と呼ばれるという。

だが安曇野と同じく九州系の海人族の移住地だと考えれば、地名も、
あまつみ(あづみ)氏の土地という意味かもしれない。

安曇を「あど」と読んで、「安曇佐=あどさ→あづさ」ではどうだろうか?

信州と同様に安曇(あづみ)氏が移住したとされる近江を見ると、「安曇=あど→安土→あづち」という変化もあるので。  



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